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SIGNのポリシー、オーダーメイド家具の魅力

あなたと、あなたをとりまく環境を
肖像画を描くように、一つの家具で 描き出す作業
それが、僕が考える オーダーメイド家具の製作です


白と黒の椅子が完成した。明日の午後大学へ納品しに行くことになった。
さて依頼者である准教授の先生の反応はいかに。
仕事として受けたことではあったが色々考えさせられた。
100年間、我々はこういうことをしてきたのだと、たったひとつの椅子を作ることから教えられたような気がする。
この世界に存在するものを肯定していくことだと。手を伸ばせば与えられるものをただ喜んで受け入れることを当たり前の感覚とし、それが人が作ったものであったとしても最高の価値を与え、その価値を語ることがアイデンティティーになっていく。
そんな価値が実在することを前提に、多くの人間がさらにそれを自分のものとするために模倣し、また反論し、さらに良いものに改良しようとしてきた。
いったい何の型なのか。
最初の一人はただ前時代に対するアンチテーゼであったのが、それは本当に普遍的な美(自由)の発見だったと言えるのか。いやこの椅子を作っている時に、そうであるという前提でそれに反論する人まで僕の前に現れる始末。
リデザインされた椅子を作ることにより、あらためてオリジナルの考え抜かれた計画を知ることができたのだが、それをみんなと同じように肯定するなら、リートフェルトがにやりと笑う気配を感じる。


そしてそのタイミングで駆け込みの仕事がひとつ。知り合いの建築屋さんからの紹介だった。
その方のお客さんの家に昔からあるダイニングテーブルを磨いて再塗装してほしいという依頼だった。
思い入れのあるテーブルで長く使いたいから、すり減り傷付いた天板のお化粧直しを、と。
こういう時、僕が知りたいのはどれだけ本気かというところ。再塗装と簡単に言うけれど、今の時代安いダイニングセットが買えるくらいの値段がかかってしまう。うちのような安い家具屋であったとしてもだ。
こちらも言いたくないなと思いながら値段を言う。
そこで自分がその家具に対して感じている価値を信じて貫けるかどうか。

なぜかこういうケースにはお客さんに優位性があり、僕はどんな仕事より頭を下げなければならなくなってしまう。
救いがあるなら、その建築屋さんが僕でなければと選んでくれたんだと思うこと。

この椅子の色は白と黒


角材の2回目を塗り乾燥しながら背板と座板を着色する。白と黒。どちらもワックス系の着色塗料だ。
ご希望では木目の見える塗りつぶしということで、下地をいって様子を見ながら2回目くらいで仕上げるつもり。
ここでしっかり乾燥させないと顔料が動いてしまう。明日の2回目以降少しだけ磨きたいし、この雨で乾燥が遅れないことを願う。

空梅雨も終わり。

オリジナルカラー


背板と座板にナットを仕込み、仮組みしてボルトで固定してみた。
オリジナルと並べてみなければイメージが同じなだけにあまり変わってないように見える。しかし実はこの二枚の板の角度は変更されている。
オリジナルがかなり寝た角度であるために実用性を考えると用途が限られる。テーブルと組み合わせて使うような椅子ではなくイージーチェア、安楽椅子の部類である。そこをあえてリデザインの変更箇所として依頼者である大学の先生は設計されたようだ。図面では背は少し立たせてあり、挟み角は狭められていた。
塗装前だから注意しながら試しに腰掛けてみた。やはり予想通りの座り心地だった。
オリジナルはその角度から作者の思いが伝わってくるような座り心地であり、なぜこんなに寝ているのかと考えさせ、同じ家具を作る者には問いかけるような言葉がある。
完全な平面はそれだけでは体に触れると固く、座らなくとも見た目にも固そうに見える。しかし実際にそれに座るとその意外さに驚かされる。考え抜かれた体重の分散。その角度に身を任せた瞬間にのみ体感する不思議な包容感。まさに重力や人間工学を学ぶための教材であり、椅子を設計するためのプロトタイプそのものが作品になっているとも言える。そんなものが100年前に。いや100年前だからこそ意味があった。

塗装をするためにまた分解していると来客があった。

今は家業を継いで自転車屋さんになった兄弟子の吉田さんだった。なんと古い型のサンバーに乗って。
珍しい緑のメタリックはオリジナルで、4WDのディアス。こいつを引き取りに行ってきた帰りだという。
ずっと欲しかったサンバーを探しまわってやっと手に入れ、うれしくって僕に見せに来たというのだ。うーんサンバー好きってねえ。
たしかに最終型でこの色があったらこれにしてたかも。いいなあ。
コーヒーを飲みながらサンバー話と近況報告、またこんなことも聞かれた。
「湯浅君、なんぼに(何歳に)なった?」
「44歳です。」
「そやろ、俺ももう47やで。47言うたら俺が永田さん(師匠)とこに訪ねていった頃の永田さんの歳なんや。」
「ああ、そう思ったらなんか、」
「せやねん、感慨深いというかいろいろ考えてまうやろ。」
時代が違うとは言え、あの頃の師匠の仕事ぶりを思い出すとどうにも追い付けそうにない。何やってんだ俺。

兄弟子が帰ってから一回目の塗装をした。
でもこんな仕事を僕と同年代の師匠はしなかっただろうし、これを見たら師匠は絶対言うだろうと思う、自信がある。
「うわっめんどくさ!」

組み立てずに展示したい


部材は素地調整まで終わりこれでやっと第一ラウンド終了。そう、まだこれからなのだ。
組木が見せ場の椅子であるとはいえ、もともとのデザインでの決め手となる座板背板の斜めのラインを踏襲するとなると、組木だけでは無理がある。そこはオリジナルでは金物を使っている。
今回そこにはある程度は木を使いつつも最終的な固定はボルトによる。そのあたりに中途半端さを感じてしまうが仕方ない。この椅子を依頼された大学の先生がもっとも注目されているのが三本組木の部分であり、そこからの発想だったため、オリジナルのシルエットを崩さないことを前提としつつ本来まず考えねばならない問題が後回しになってしまった。
これはリスペクトを伝えるトリビュートなのか、リデザインなのか、それとも一番陥ってはならないパロディーなのか。
リデザインであればそこに「改良」が含まれねばならない。僕も結局これを仕事としてスタートさせる時期のために十分煮詰めきれなかった部分がこのボルトでの固定であった。

100年前にデザインされた椅子を、何百年も前からある職人技を用いつつも、結局最後はボルトを捻る。
第二ラウンドとして区別したいのはそんな気持ちからだと思う。

30分


2脚分の背板と座板を削り出すのに昼過ぎまでかかった。背板はその幅の一枚板があったのでそれを使い、座板は二枚はぎにした。
どちらも30ミリの板から削りはじめ、15ミリまで落とした。それでも薄いと思われるかもしれないが、オリジナルはなんと10ミリなのだ。9ミリのMDFボードに特殊な塗装をして仕上がり10ミリ、その塗装により強度の確保と変形を抑えていると思われる。それに対しこちらは無垢板なわけで、どこにも保持されていない状態の大きな平面は必ず反るし、さらに薄ければ湿度温度の影響を受けやすい。15ミリでもたぶん扱いが悪ければ反るだろうし、二枚はぎは波打つだろう。むしろなぜここに無垢板かと思う。
オリジナルのデザインコンセプトにおいてはここは10ミリであっても厚いんだと思う。ただ二次元的な平面に腰掛け、もたれるということをしたかったんだと思うから。厚みがあればそれは直方体、三次元だ。
そうだったとしても、それを可能な限り平面に仕上げないとさらに意味から外れてしまう。15ミリに落とすまで慎重に平面を作りながら削る。そして出来上がった板はさん積みして30分ごとに裏表を入れ替える。はたして安定してくれるだろうか、いや、展示場所でまた変形は起こるはずだ。

削るのが終わる頃、彫刻家の村林君から電話がかかってきた。「今から出ます。30分以内に着きます。」
村林君のアトリエは大阪市内だし、30分ってえらい自信だなと思った。高速をバイクで飛ばしてくるとか、まあ彼ならあり得るか。と思っていたら随分早く彼等は到着した。独りではなく村林君の知り合いの方と一緒だった。
その方が木工旋盤について教えてほしいということだった。障害者の作業所で旋盤を使ったものが作れないかと考えているそうで。でもなぜ僕に?
実演しながら話をしていると、アスペルガーの人にいいのではと計画されていたらしい。
ああ〜、
それなら大丈夫、好きなひと絶対ハマりますよ。僕が保証します。
木彫のプロである村林君にもちょっと触ってもらったが、しゅるしゅると楽しそうに削っていた。

返事なし


今日はここまで。明日は背板座板。

もらいものを引き取りに


大工の友人の紹介で、大阪の建具屋さんから超仕上げ鉋盤をもらった。新しい機械を購入されるらしく、古いものを誰か欲しい人にということだった。
超仕上げっていうと木工機械の中でも贅沢品という気がして、結構繁盛している人しか持ってないというイメージがあった。勝手な思い込みだけど。
実際買うとなるといい値段するし、刃物のランニングコストを考えるとはたして実用価値があるのかどうか。なくても手鉋やサンダーという応用の効く道具を駆使して仕事をする美学みたいなものもあったりする。そんな仕上げ削りだけのために何十万も出せないと思っていた。
だから欲しいなんて思ったことはなく、昨日大工の友人から電話があった時も申し訳なかったがあまり感激もなく、「タダやで!もらっとき!」と熱く言われても、タダだからもらっとくか、くらいの気持ちだった。いやそんなことより、うちの狭い工場(こうば)のどこに置けるかなとかそんなことが気になっていた。
僕より年下だけどしっかり者の大工の友人は電話口で畳み込むように集合時間と集合場所を決めていた。僕はその翌朝、言われた通りコンパネと足場板を車に積んでその集合場所へ向かった。

息子さんとは同じ現場に入ったこともある建具屋さんだった。初対面だけど友人のおかげでとても気さくにお話してくださった。
機械の使い方を実演しながら説明して下さり友人はその話にあいのてを入れながら、二人でこの機械のすごさというか重要性というか、マニアックな部分まで教えてくれて、いかにこの機械がよく働く機械かを教えてくれた。
うう〜んだんだんそんな気がしてきたぞ。これはすごくいいものをもらえる気がしてきた。考えたら師匠はじめ兄弟子も持ってる弟弟子も持ってる、で持ってないのは僕くらいだった。それは儲かってる順番に買ってるんだと思っていたが、儲かってないうちにまで君がやってくるとは!よーしこれでばりばり仕事するぞ。
と、機械を工場に持って帰ってみると作業台には組木の椅子。しまったこれもう仕口加工済み。ああ、こいつは手で仕上げないとだめなんだなあ。
超仕上げの出番は見送られ、今までなら当たり前に思ってたことが、目の前に便利な道具があるととたんにめんどくさくなってしまう。


さて、アリ型のほぞまで登場。
先週作った部分で間違いがあり、今朝はそのやり直しから始まる。バックオーライは精神的に疲れる。立ち直りの早さが必要だ。大急ぎで4本の部材を作り直した。
その後ひじ掛けを固定するための接合部として、アリ型のほぞを作った。床の間の段違い棚によく使われる手で、抜く方向に力が加わる部分にアリの吸い付きによって抜けを防ぐ。
だいたい座った状態で椅子を押し引きする時にはひじ掛けを持って動かすので、ただのほぞでは抜けてしまう。ここでまた「分解組立可能」のハードルが接着も、デザインを崩すくさびも金物も許さない。どこまでいっても見た目はどうってことない感じにしなければならない。そして分解の際に現れる仕口によって気付かせる。
作る工程を無視して描かれた絵をそのまま形にするには、たいへんほねがおれる、ということを。


組木接合の仕口ができたので仮組みしてみた。出来上がってみればやはりあっさりしたものだ。見せ場となる三本組木の複雑な仕口も組んで見えなくなればそれほど主張することもなく、オリジナルのデザインから大きくはずれることはなかった。
要はノックダウンであるという分解組み立ての行程で体験するパズルが、このアレンジのポイントであると言えるのではないか。
組み立てはその順序を守らなければ完成せず、ひとつひとつの仕口には番号をふったものの、ばらばらにした状態では角材の束でしかなく、完成の形を把握していなければどの部材がどこに配置されるのか想像しにくい。
また分解は特に三本組木の部分はどうすれば外れるかを考えなければならない。

分解でも組み立てでもその答えを得た時の達成感と、それを知っているという満足感を感じつつ「座る」楽しさを提供するということなのかもしれない。


ばらした状態で作ってるともう何がなんやら。パズルだったらかなり難易度は高いと思う。
長さが違うだけで角材という形状は同じで、仕口の形から判断して椅子に組み立てられる人は知能指数高そう。
同じ椅子を作ると言っても、いろんな技を駆使して複雑な形を作り出すのも、これのようにひとつの作業だけで形を作り同じ機能を満たすのも、どちらも家具を作るということ。
朝から延々同じことしかしてないのに次第に形ができていく。不思議。
単純作業に抵抗を感じていてはできないが、無計画にはできない仕事でもある。オリジナルをデザインした人はもともと家具職人だった。形を考えるだけの人にはたどり着けない答えだと思った。

相欠きと写真デビュー


寸法切りした角材を、相欠きで二本組みする箇所だけ先に加工した。
組木風のノックダウンということは接合部を接着せず、それでいて強度を持たせながら手で分解できるようにしなければならない。つまり締め過ぎず、ゆる過ぎずという微妙な精度が求められる。
単純な相欠きとはいえ慎重に作業していたら半日かかってしまった。

昼過ぎ、それらができようかという時、電話が鳴った。写真茶話会に参加されていた女性からだった。
茶話会の最終回に参加された方々の作品はその日すべて編集作業まで完了し、一応の完成となった。しかしそれは選別作業上のプリントの状態であり、本番のプリントや額装、製本といった人に見せる形にはそれぞれで仕上げてもらうということにした。
電話の女性はそれを一冊の写真集に仕上げるということだった。そしてそれができたので見てもらいたいと。
即答で「いいですよ」と返事をし、切りのいいところまで本業の作業を進め、作業台の周りだけ掃除をしてその女性が来るのを待った。

その女性は写真館の奥さんであり、写真館の娘として生まれ育ち現在に至る。しかし先代のお父さんが引退されるまでずっと彼女は写真を拒絶してきたそうだ。撮るのもイヤ、撮られるのもイヤ、写真館がイヤ、写真は嫌い。
お父さんが仕事をされるお店に近付くことすら避けてきたらしい。
そして世代が代わり、娘夫婦にその写真館が引き継がれることになった。そこで彼女は今まで触れることもなかったカメラを持ち、一から写真を始めてみようと思った。まずは写真を楽しめるようになりたい。そういう思いでうちの写真茶話会に来られるようになったのだ。

そんな彼女が嬉々として、出来上がった写真集を僕の前に差し出した。僕がそれを開く前から、それが完成した喜びを伝えずにはいられないようで、「うれしい」と「ありがとう」をくりかえしくりかえし。また1ページ開く毎に一枚一枚の写真を解説してくれた。
驚いたのは最終回で編集した作品から少し変更されていたことだった。その後自分で差し替えた写真もあり、また撮り直した写真もあった。僕が提案した変則的なレイアウトもブックの規格にあわせてアレンジしてあった。そしてそのどれもが理にかなっていた。さらに良くなっていたのだ。
作品はとてもあたたかみのある良い本になっていた。いい作品だ。もう大丈夫でしょ。


午前中椅子の部材を製材していたら近所にあるバイク屋さん「Garage RIDE」の村田君が来てくれた。
VFが今月車検で、昨日昼休みに走りに行った後お店に寄って予約を入れてもらったのだ。そしてその翌日に家まで引き取り。近いから持って行って歩いて帰ろうかと思っていたのに、「近いから取りに行きますよ」とタダで来てくれた。ありがたい。そういうやつなのだ。
せっかく来てくれたんだからと、バイクを車に積み込んでいる間にコーヒーの準備をする。

検索していて偶然見つけた店だったけど、どうも運命的な出会いだったみたい。聞けば彼が独立前勤めていたのは僕が昔スポーツスターを買った店であり、彼が尊敬する整備士の先輩は僕が当時たいへんお世話になりとても信頼していた方だったし、彼が「うちのお客さんでこんな人がいて」と話す人の名前を僕は何人も言い当てることができた。ちょっと気持ち悪い。彼もまた世の中を狭くしている張本人だった。
しかし彼とバイクの話をしていると僕の中で掘り起こされる感覚や記憶が次々と目を覚ますようだ。
最近火がつきはじめたオフ熱も、ただ上達するだけではなく楽しむ方法がある気がしてくる。彼の得意とするヴィンテージMXやシングル、ツインのカスタムは僕も一時期凝ったこともあり話は理解できる。しかし今ではもう興味はなくなり、今さらSRやスポーツスターのカスタム車に乗りたいとは思わない。そんなこと言うと彼には悪いけど。
でも僕のこの勝手にオフ車ブームと結び付けて考えると、アリデスヨ〜。ええとっても。
競技に出たいわけではないし、めちゃくちゃうまくなりたいとも思っていない。気持ちよく走る程度に上達はしたい。オフ車のオリジナルにこだわるマニアではないし、スペックが気になるハイチューン派でもない。低走行美車極上車は高くて手が出ない。あくまでオフ車はセカンドバイク。だったら、彼にまかせればいいんじゃないの。
オフ車をベースにディメンションさえ変えなければ走行性能はそのままだし、乗る気が失せるあのプラスティックとポップなグラフィックをかっこ良くするだけでもいい。
よし、ぎりぎりエンジンかかるくらいのベース車なら僕の懐にも優しいはずだ。

椅子の部材表の横にある落書きは、彼とカスタムについて語り合った跡。

今日は木取りまで


毎年後期の授業として木工を教えに行っている大学の先生から依頼を受けた。
先生のデザインの研究として、あの有名なリートフェルトの「赤と青の椅子」を日本の組木の技法を用いノックダウンタイプにアレンジするというもの。
オリジナルはほぞではなくダボを使った接合であるために一見どうやってくっついてるの?と思わせる面白さがあり、その接合法が彼のデザインに自由をもたらしたとも言われる。この椅子の特徴的なキーポイントである。
それをパズルのような分解組み立て式にしようと言うのだ。
なぜか、というとまた色々な理由やコンセプトがあると思われるが今は聞き流し、仕事に集中したいと思う。
14か所ある接合部分のうち組木になっているのは4か所。それ以外の方が多い。さらに座板と背板の固定はオリジナルのアングル金物とは別の方法を考えなければならず、作る側としては考えなければならないそれ以外の仕事の方が多いからだ。
シルエットはほとんど変えずに、工程におけるオリジナルの合理性を、技術を持った人間でしか作れない特殊性に置き換えることだと作る立場から見ればそう思え、いくばくかの罪悪感も感じたりする。
しかしこれは仕事だ。やるからには彼を超える心構えで立ち向かわなくては。ちょっと大げさかな。
名もない木工家の仕事はオリジナルの3分の1以下。誰かに数字になおされる前に、先に言ってしまえ。

二段ベッドにまつわる旅


長距離を走っても、車だと旅をした気分にならないのはなぜだろう。
製作工程に入るとなかなか外に出る機会もなく、そんな遠方への直接納品はたまに味わえる旅気分であるはずだった。
だから、ただトンボがえりするのではなく、どうせなら時間が許す限りあちらこちらへ寄りながら、またこんな機会にしか会えない人にも会いたい、と思ったのだ。

納品の約束は土曜日の午前中ということだったから、前日に出発して茨城に住む妹夫婦のところへ泊めてもらうことにした。
高校を卒業してから僕は大学進学と同時に一人暮らしを始めた。それ以来妹とは年に1、2度会うくらいになってしまった。それまではそばにいるのが当たり前だった家族も、誰かの身勝手によって簡単に距離ができてしまう。
離れることが目的だったわけではないけれど、他の日常を手に入れると途端に以前のものが遠い記憶になってしまう。切り離された過去の自分を思うと、その切断面からこっちの自分は切なくも少し大人になった気がした。
その後妹も結婚し、京都から茨城へ移り住んで夫婦で陶芸をやっている。向こうも向こうで日常を手に入れつつ、盆と正月には親元で会うことにしているから、年に1、2度のペースは未だに守られている。ただ今回少し体調を崩したと聞いていたので、東京から2時間足を伸ばして顔を見に行くことにしたのだ。
震災後彼等は移転を考えていた。作りかけの作品や在庫を失った程度で大きな被害はなかったが、原発の不安もあり、今となっても現実的な暮らしにくさや不安は解決されない。これから子供を産み子育てをしながら仕事を続けるには、その土地に根を下ろす覚悟がいる。設備を含む工房を移転することは早々できることではなく、今の場所でのつながりや仕事のことも考えると二の足を踏んでしまっていた。
そんな彼等があることをきっかけにようやく少しずつ動き出した。兄としてはできるだけ応援してやりたい。その夜は眠るまでそれについての話をした。今となってはどうにも頼りない兄ではあるが、二段ベッドの主導権はいつも僕にあった。

翌朝、納品の約束の時間の3時間前に妹夫婦宅を出発した。北関東のアウトバーン常磐線をひた走り、目的地である世田谷までもう一度都心を横断しなければならなかったからだ。土曜日だったが東京はやはり朝から渋滞していた。早く着き過ぎるかとも思われたが、そのおかげでほぼ約束どおりの時刻となった。
しかし、到着してナビが指し示す家を見て目を疑った。世田谷という立地からしてもすごいのだが、新築で最近建てられたその家は土地の広さを贅沢に使った間取りで、一番広いリビングは半分が屋外となっており、中庭というより公園を眺めながらくつろいでいるような感覚だった。ここが密集した住宅街であることを忘れてしまうような、考え抜かれ外部とはしっかりと遮断された空間。仕事を始める前にと、お話をしながらコーヒーをいただいた。
依頼者は僕と同じ年齢で出会ったのはもう10年ほど前になる。僕が木工の修行中だった頃、彼は奈良で小さな店の店主であり、まさにこれから事業を拡大していこうとするスタート地点だった。実際彼の仕事を少し手伝ったこともあったし、そのひとつめの支店に家具を納めたこともあった。最近では社員の研修の講師を頼まれたこともあった。事業が大きくなっていくことは外から見れば当然の成り行きであり、彼の才能を思えばさらに然り。しかし、彼のプライベートや生活のことなど想像をしたことはなかった。東京に引っ越したとは聞いていたが。
軽いショックはあったが、不思議とうらやましいとか妬むような感情は湧いてこなかった。それは彼の人柄のせいでもあるんだろう。月に何億という金を動かしていても、それでも彼は僕に彼がうらやむような人間になってくれと言う。いやみではなく、そういうことが言える男なのだ。
規模が大きければそれだけ不安や悩みも大きい、「仕事に関してはきっと湯浅さんより悩んでますよ」その言葉は真実だと思う。
ひとしきり話をした後、搬入作業に取りかかった。設置場所である子供部屋は3階にあった。サンバーから分解したベッドを運び出し、組み立てる順番に上げていく。
組み立て作業の間にも、ワクワクを隠しきれない子どもたちが話しかけてきたり、すこし形が見えてきたところを登りたくて仕方ない様子だった。
この仕事のはじめての打ち合わせの際に、オーダーメイドする理由として、作った人に出会わせてやりたいと言われていた。目の前で自分達の家具が出来上がっていく様子を見せてやりたい。そんな思いを背負いつつ、わずかな時間ではあったが僕は子どもたちと接しながら作業を進めた。
完成するやいなや、それはジャングルジムと化し歓声が上がる。ラダーだけでなくいろんなところから登ってみせるお兄ちゃん。お母さんに布団と枕をもらって自分で3階まで運び、早速寝てみるという妹。枕元にはすでにお気に入りの本が数冊置かれていた。
今まで親と一緒に寝ていたのに、これから二人で寝れるかな。「夜ひとりでトイレにも行けないのに」と心配する父親に、「絶対大丈夫!」と子どもたち。少し複雑な親心。
「ほら、寝ながら窓の外が見えるんだ。」窓際に置くことを提案した父親もまた、二段ベッド経験者であった。

設置が終わったのは12時を過ぎていた。1階に降りてくると食事の用意がしてあった。食べながらまた少し話をし、午後からの約束のために僕は新宿へ向かった。

新宿では僕が教員だったころの教え子が写真展をしていた。いつものことながらその知らせは唐突なメールで携帯に届けられた。そういった彼女からの知らせは驚かされることばかり。あえてそんなことを選んでいるのではないかと思うが、彼女の性格を思うときっと僕に連絡しないことの方が多く、その一部を見て僕がハラハラしているだけなんだと思う。
新宿に向かう途中にまた彼女からメールが入った。前から聞いていたことだったが、僕が写真展を見に行く日は池袋で新作写真集の発表をかねたサイン会があると言っていた。写真展は美術館で開催されていて入場料がかかる。チケットを渡しに会いに来るつもりでいたらしいが、やはり抜け出せないというメールだった。
あたりまえだ。ぎりぎりまで抜け出すつもりでいたのが驚きだ。そのメールの続きに「受付で名前を言って、入れるから〜」とあった。会えるとは思っていなかったし、そんなところで会うなんて目立って仕方ない。こっちがいやだよ。
それに新宿で会う約束をしていたのは彼女とではなく、10年ぶりに会うその教員時代の同僚だった。
僕と同じ年に学校を辞め、向こうはその後東京でフリーカメラマンとなった。噂ではいろいろ聞いていたが直接話すことは以来なく、たまたま東京で活動中のある教え子から電話がかかってきた時にその横にいたらしく、強引に電話がまわされ久しぶりに話をしたというわけだった。
しかしなぜか「必ず東京に来るときは連絡下さい、絶対ですよ」と念を押された。そんなに会う理由なんてあるのかと思ったが、ちょうど東京納品が決まっていたので連絡をし、一緒にこの写真展を見ようということになった。二人の共通の話題にもなるこの写真展は、かつて僕らが学校で見ていた写真をメインに展示してあり、冷静に見れば華々しくすごい展覧会ではあったが、僕らの再会の場所としてはちょうどいいセッティングであった。わるいけど。
ちょうどその日、彼女は新宿で撮影の仕事をしていたらしく、僕が会場に着く頃に待ち時間ができるということで現場を抜けて来てくれた。久しぶりに会う彼女は見た目はあまり変わらなかったが、10年という時間をどこかただよわせていた。
二人で会場に入り、言われた通りに名前を言うと受付の女性の顔がぱっと明るくなった。
なんだなんだ。
「お聞きしております。こちら、チケットをご用意しております。」と封筒を渡された。
「あの、連れがいるんですけどよろしいですかね。」と聞くと、封筒を開けるように言われ中を見ると何枚もチケットが入っていた。おおっとさすがだな。「ありがとう」
写真展については詳しくは書かない。ただ展示についてはすばらしいスタッフの協力があったことがうかがえた。まったくすきがなくバランスがとれていて、よく作品を理解してくれているのが伝わってくる。幸せなことだ。そう思って眺めていると一人の男性が会釈をしながら近付いてきた。まさか僕にではないと思ってよけようとしたら僕に声をかけてきた。
「湯浅先生ですね」ええっ!?はい。
「ご高覧ありがとうございます。わたくしこのたびこの展覧会を担当しましたキュレーターの……と申します。」と名刺を渡された。あいつどんな紹介したんだよ。チケットってこの人に頼んだのか。
「いやこれはどうも、大変お世話になりました。すばらしい展示で、ありがとうございます。あの、僕は名刺を持っていないんですが。」
「いや結構ですよ。」なにその笑顔、みんな知ってるよみたいな。「どうぞごゆっくり」と言ってその男性は去っていった。
ああ…びっくりした。タダ見でお得はなかったか。金払ってりゃこっそり見れたのに。よれよれで汗臭い作業着にぼさぼさ頭か。落ちぶれ感満載で逆に期待されなくてよかったか。やれやれ。
隣にいた彼女も驚いていた。しかしこのエピソードのおかげで僕らは少し話しやすくなった。写真展を見終わったあと、一階のカフェで彼女が仕事に戻る時間まで話をすることにした。東京での生活が長いので彼女の言葉は標準語になまっていた(!)が、僕と話しながら関西弁が戻ってくると振る舞いまで関西人らしくなっていくのが面白かった。混雑した店内で席を確保する時に彼女の本領は発揮された。
振り返る話が多かったけれど、彼女の写真に対する希望も聞けてよかった気がする。噂では苦労をしていると聞いていたから。在職中は同僚ではあったが、なぜか僕は彼女のことを教員というより学生のように見ていたところがあった。昔と変わらず彼女に「湯浅先生」と呼ばれると猫背も少しのびる気がする。ただ僕はもう先生ではない。
がんばっているとは彼女のようなことを言うのだろうと思う。

彼女と別れて次は長野県の戸隠に向かう。このブログによくコメントをして下さる「電気屋さん」という方のところへ。
知人がネットを通じて知り合った方で、今までに僕も2度ほどお会いしている。バイク好きというところでつながり、一度奈良の道を二人で走ったこともあった。ずいぶん前から遊びにおいでと誘われていたのだが、なかなか時間が作れず行けていなかった。
今回東京への納品で帰りに寄れたらなあと思っていたら、見透かしたように向こうからお誘いのメールが届いたのだ。そういう感覚の持ち主というか、不思議な人だ。
バイクに関してはもう僕など足下にも及ばない大先輩で、なんと今まで乗り継いだバイクは400台を数え、モトクロスやレースにも参加したりメカにも詳しくただ好きなだけではない。技術や知識に裏づけされた本物のバイクバカだ。
また「電気屋さん」と言いながら大工や木工もされるので、僕の仕事についてもよく理解して下さっている。
全てにおいて僕の先を行く人だと思っている。会えば必ずバイクの話ばっかりになることは予想されたが、今回は僕も電気屋さんに聞きたいことがあり、到着したのは夜9時前だったと思うけど、奥さんにごちそうを作ってもらい食べながら3人で1時過ぎまで話し込んだ。
翌日は、天気が良ければ山へ行きましょうと言われていた。もちろんバイクで。
そのために二段ベッドで満載だったサンバーに隙間を作りメットとグローブ、ジャケットまで積んできたのだ。電気屋さんの住んでいる戸隠は山に囲まれた地形で、家を出発してすぐ林道が始まり、見渡す山々をガンガン走れるうらやましい場所だった。電気屋さんが現在所有されているバイクのほとんどがオフロードバイクであるのもうなづける。モトクロス、トレール、トライアル、ちょっとビンテージっぽいトライアルにコンペティションモデルのミニバイク、そしてオフロードっぽいスクーター。それと唯一オンロードと呼べる一台はなんと60年代のグッチV7。それにも少し乗らせてもらったけど雰囲気は昔僕が乗ってた川崎W1SAに似ていた。確かにオフだけでなくオンロードもターンパイクやワインディングが豊富な長野県だから、少し走れば有名な山岳ツーリングコースをいくらでも、どこまでも走れてしまうのだ。速く走るだけではない味わいのあるバイクも絶対に必要だ。いいなあ。
さて、肩ならしも終わったところでいよいよ林道へ。僕にとってはもう20年ぶりくらいの本格的なオフライドだ。感覚を思い出せるか心配だったけど、電気屋さんがコースの難易度を考えながら前を走って下さったので安心してついていけた。バイクはTL125とスーパーシェルパ。どちらも乗らせてもらい、やっぱりシェルパの方が僕向きみたいだった。結局スタンディングで走るとこが多かったわりにスピードがのる道が多く、シェルパの方がパワーがあるからか滑らかで走りやすかった。ただ丸太越えも何か所かありトライアル的な技術を知らない僕には難しかった。心配していた転倒は一度もなかったけど。
それにしても、ああしあわせ。木漏れ日がさす新緑の中をうねり、上下し、オンロードでは味わえない操作感。それをこんなお散歩感覚で走れるなんて。ああオフ車がほしい、こんな山がほしい。最近はロードスポーツのことばっかり考えていたから興味はあまりなかったが、オフ出身者としてはこれはどうにかしなければなりませんなあ。
もちろんオンオフどちらも所有がのぞましい。しかしただオフ車を買えばいいということではない。どこを走るかだ。河原で練習?お金を払ってコースで?トランポに積んで遠くまで? No!! いやちがう、この思い立った時に短くても本気で走れるコースが近所にないとだめだ。帰ったら少し散策してみるか。でも見つけたらどうする。その次はバイクが必要となるわけで。ああなんだよ、電気屋さんちが近所だったらいいのになあ。いやいろんな意味で。バイク以外のこともだけど。先を行く人ってことはいずれ僕もそこへ行けるのか。同じ道はないにしても目的地が同じなら近い道を通れるのか。今は交わるためには片道6〜7時間かかる距離がある。それが現実的にも人生においてもあの人と僕とを隔てる距離であるような気がする。これが気にならない距離になればすごい。旅気分など感じないほどに。

今回会いたかった人はみな遠くにいた。僕が離れているのか彼等が離れていったのか。二次元的な座標では重なっていても、現実ではお互いに干渉せず寝られるほどの距離が二段ベッドにはある。
二段ベッドのその他の画像と寸法

旅の前日


二回目の塗装も乾いてきたので、引き出しの前板を取り付けた後ためしに車に積んでみることにした。
SIGNカーは今、積載能力と走行性能に定評のあるスバルサンバーのバン。もちろんスーパーチャージャー付きの4WDで5MT、さらに最終型だ。
体積的にはぎりぎりだと思われた。あの大きな引き出しをどのように積むか。結局積む順序や積み方で乗るか乗らないかが決まりそうで、乗ったとしても東京までの長距離を安定して運べるかも重要。高速で荷崩れしたら大変だ。

いろいろ出したり入れたりしながらパズルを解いていく。
分解式なので助かった面もある。積んでから一部車の中で組み立てたりして、できるだけ平らに平らに積んでいく。
布団をかけたりベルトで縛ったりして荷崩れ対策もした。よし、これ以上ない完璧な積みっぷりだ。明日はこれで行こう。
いや…、もう下ろすのいやだ。

というわけで明日の出発までこのまま積んでおくことにした。出発前にテンパるよりいいはずだ。
納品は25日の午前中となった。夜走って朝着より、前日に茨城の妹夫婦の家まで行って泊めてもらうことにした。搬入から組み立てまで2時間くらいかかるだろう。そのあと昼から約束していた写真展を見に行き、もし会えたら知り合いにもちょっと会って、それからサンバーは長野県の戸隠へと走るのだ。
軽のワンボックスの中で唯一サンバーの4WDは高速走行できる4WDなのだ。

やっぱり二回目


数が多くて乾燥する場所がないために半分ずつ塗装している。後半のグループを午前中に塗装し、できるだけ無駄なく並べてなんとか作業台の上を空けておいた。
写真茶話会のために掃除してあったので機械の上や床にまで広げて乾燥をさせる。
午後からは前半に一回目の塗装をしたグループが乾いていたので二回目を塗った。やはりこの光沢と手触りは二回いかないと出せない。量が多いからといって手の抜けないところだ。

おとといの茶話会は8時間におよび、そのうち7時間くらい合評をしたからやっぱり疲れてたみたいで、昨日は工場を片付けて後半の塗装の準備をしただけで終わった。
茶話会が終わった直後は結構平気で、あんまり疲れてないや、と思っていたのに時間差で翌朝どっときた。
常に使っていない脳を使うからだろうか。筋肉疲労のような疲れ方をする。
写真を読むこと、それを言葉にして伝えること、編集して構築すること。本来ならそれぞれじっくりと時間をかけてすべきところを、一人1時間くらいの合評の間にしようというのだから、頭は直4のレーシングマシンでレッドゾーンまで吹けきっている状態なのだ。それも普段ハーレーのようなビッグツインでのんびり走るような使い方をしているからそのギャップで余計に疲れるんだと思う。
でも今だから言えるけど、疲れるといってもまだ走れるんだなあと思った。こんな旧タイプのポンコツだけど。

SIGNの写真茶話会の最終回

今日は4年半続けてきた写真講座「SIGNの写真茶話会」の最終回だった。
続けて参加されてきた5名の方々の作品を、夜9時までかかってすべてを完成まで漕ぎ着けた。
図らずも第1回から参加されていた方の作品が最後の合評となり感慨深かった。

写真専門学校の教員を辞め木工に転向した時に「もう写真の仕事はしない」と心に決めた。僕にとっての写真表現とは教育であり作品指導だと思っていた。学校を去ること、それは写真を捨てることだと。
しかしその封印は、いくつかのきっかけが重なり数年後自ら破ることとなった。
僕が教員を辞めた後、教え子たちが卒業後華々しい賞を受賞し、僕が関わった作品が次々と出版され、近年の写真家としては異例ともいえる扱いでもてはやされ、教員の時に抱いていた「写真界を引っくり返してやる」という野心は僕が写真界を去ってから叶えられたのだった。それはまさに実績は彼等にあることを示し、僕が理解するためだと思っていた。
しかしある時、木工家になってから知り合った人から一度だけ写真教室をしてくれないかとの依頼があった。その誘いに僕は我慢できなかったのだ。それに対する返事は仕方なしにという感じではあったが、内心ではすごく嬉しかったんだと思う。また授業ができるということに。
3回で終わったその写真教室の後、それで終わりにするという自分との約束とは裏腹に、ふつふつと僕の中では欲がわき上がっていた。もう一度、いやもっとやりたい、どうすればいいのか。
そうして始めたのが「SIGNの写真茶話会」だった。場所を借りるお金がないので自分の工場をその日のために大掃除し、最初は知り合いや前回の写真教室の参加者に声をかけ、ホームページでも告知をした。
本業に差し障りのないようにと言いつつも、毎回講義と合評による作品指導を行う本気の写真講座であることがやりがいだった。またそうしているうちに、僕の中では欲望が膨らんでいった。もう一度学校で授業がしたい。
しかしそれは引き返せない道であったし、すでに木工家としての道もある。それでもふたつを両立する方法はないものかと、ここ数年あがいてきた。そのふたつがけっして両立できないという思いなどなかったかのように。
昔の知り合いや学校をたずねたり、木工を続けながらできることを条件に調べた近くの大学に書類を送ったりもした。
だがそれらはすべて空振りに終わった。僕が示さずとも「実績は彼等にある」ことは世間からすれば当たり前のことだった。僕にはなにもない。
そして僕の欲求で始めた写真茶話会も、なんの成果も出さずただ欲求を満たすだけのものであってはいけないと思った。続けて参加されている方もいる。彼等の作品を全て完成させることをもって終わろうと思った。

その期日が今日だった。

また欲求に耐えられず、何食わぬ顔で始めるのかもしれないし、もう再び写真を教えることはないのかもしれない。
今日の閉めの言葉で言ったように今後のことは一切考えてはいない。本当にただ終わるというだけ。
参加されたみなさんの作品はどれもすべていいものだった。それが写真茶話会の意味となり、実績は彼等のものとなる。
写真よさらば。なんべんも言わせるな。

久しぶりに見た気がする


分解して一回目の塗装をした。全部塗りきらないうちに干すところがなくなった。
あさっての茶話会の準備もあるのでここまでで一旦終わることにした。
この暑いのに不覚にも風邪をひいた。

会いにいくよ箱に乗って


引き出しができたので入れてみる。でかいと思われた大きさも、洋服収納だと思えばタンスの幅くらいだからちょうどいいみたいだ。これなら衣類もたくさん入りそう。
両側もしくは片側から奥へ2列。季節の衣替えで使い分けできるように分割した。
構造としてはキャスター付きのボックスなので、完全に引き出して衣類の出し入れができ、そのままころころ転がして移動もできる。
耐荷重は30kgくらいを想定しているから大丈夫だとは思うけど、子どもたちは乗って遊ぶかもしれないな。

これで作るものはすべてできた。作っては運びしているうちに工場(こうば)はからっぽに片付いていく。やれやれという感じ。あとは塗装をするだけ。
塗装をするためにもう一度すべてを分解する。その前に一枚写真を撮った。
次にこの姿を見るのは納品先の子ども部屋だ。

箱だ


いよいよセット最後のパーツとなる引き出しの箱を作った。これで木を切る作業は終わり。
ああ、山のようにあった材料を使いきった。
明日は箱の仕上げと前板を仮で取り付け、キャスターも付ける。それができたら一度納めて確認し、すべてを分解する。塗装をするためだ。やっと完成が見えてきたぞ。

二段ベッドというのはいろんなパーツの複合体で、ひとつひとつが一仕事と言えるものだった。
感覚として家を作る作業に似ていた。僕は開業前に少しの期間大工手伝いをしていたことがあり、自分でも何度かリフォームの仕事を承けていたこともあった。今住んでいる家のリフォームも工場も友人に手伝ってもらいながら自分でやった。
そんな時大工の友人によく「もっと適当にやれ」と言われたことを思い出す。芸術でも作品でも家具でもない。丁寧にやり過ぎだと。
もっとも、家具のことしか知らないわけだから大工のクォリティーなんて知る由もなく、家の構造を知らないために自分のやっている仕事が最終どうなるかも分からない。最初の頃はいちいち考えながらやるのでペースも上がらなかった。やたら疲れるばっかり。
ひとつの現場が終わる頃には、もう二度と大工なんてやるもんかと思うのに、暫くするとまたやりたくなってくる。家具とは違うあのダイナミックな作業と、人が入れる構造物を作る楽しさ、いろいろな生活のための設備が取り付けられて電気がつながったときのまさに命が吹き込まれたような感動。家具にはない面白さがある。
そんな大工仕事の面白さと家具のクォリティーを許されるものがあるとしたら、二段ベッドはそのひとつなんだろう。
コストを下げるために大工さんが新築の家で家具を作るケースはよく聞くが、その逆はあまり聞かない。
もっと金を突っ込んでもいいなんて言うお客さんはまずいないだろうから。
しかし、こないだの堤さんの時給計算によれば大工さんの最低賃金より安いので逆にお得?かかる時間さえ気にしなければ。いやいや、そんな仕事がしたいんじゃない。

これが乗るなら


引き出しの前板を作った。ベッド下に収納するキャスター付きの引き出しで見付で2つだから一つの幅が1mを超える。
実際作るとでかいな。これを4つサンバーに乗せるということは、うーん全部のパーツが乗るのか心配になってきた。納品前に一度積んでみないといけないな。

場所になる空間になる


きれいに面取りまでして仕上げた床板をすのこに組み上げる。
ここはがたつきなくぴったり納めたいので現物合わせで本体にのせた状態で組んだ。固定には強力なフロア用タッカーを使用した。
簡単にできると思っていたのだが意外にも苦戦し結局作業は最終の調整まで丸一日かかった。すのこにもすのこのノウハウがあることを知った。頭の中で大工の友人がいかにも言いそうな言葉が聞こえてくる。
「ゆあっさん、がばがばに作らなあかんでえ」
その声があまりにもリアルでちょっと笑えた。確かに、作業台の上で小さめに作って入れるほうがずっと簡単である。しかしやはりがたつきと、耐加重を考えるとたとえ1ミリでも多くのせたいという気持ちから現物合わせを選んだのだ。

組み上がり、上段下段どちらも自らテストしてみる。体重70kgを超える僕がのっても安定している。上段でも揺れはなくこれなら十分大人でも寝られそうだ。子どもならまったく問題なし。
そして下段のほうは、見上げるすのこの裏や本体の構造が面白い。一段であれば隠れてしまう裏側の、自分がした仕事に囲まれているようでなかなか味わいがある。これはいいや。二段ベッドはいい。
上に寝る子も下に寝る子にも気に入ってもらえたらいいな。

SIGNの写真茶話会42を開催します。定期開催の茶話会としてはこれが最後になります。

5月19日(日)

11:00〜12:00 バイク茶話会(参加費無料)阪神高速大堀出口集合〜SIGNまで(雨天中止)
13:00〜17:00 表現講座(参加費 2,000円、定員なし)

午前のバイク茶話会はバイクがお好きな方ならどなたでも参加して下さい。午後の写真茶話会とは内容は関係ありません。
阪神高速大堀出口から出発し、30〜40分のワインディングコースをSIGNまで走ります。
途中コンビニ休憩あり。初心者の方には簡単なライディング指導をします。雨天の場合は中止とし、SIGNでバイク談義でもしましょうか?
また、午後に参加する方と一緒に昼食を食べにいきます。(うどん)

午後の表現講座は今回最後となるため、今までに参加したことのある方のみの受付となります。
続けて参加されてる方々の作品がほぼ完成で、今回見せる写真がないという方も見に来るだけでも見応えはあると思います。

参加を希望する方はメールにてお申し込みください。
sign@norioyuasa.com
SIGNの写真茶話会について詳しくは「教室のご案内」を御覧ください。

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