「あ…
なんだか、懐かしい匂い…」
その建物の中に入ってすぐに彼女は立ち止まり、そこから見える景色をゆっくりと見渡した。円形と言ってもいいくらいの多角形をした建物の、外部に面する壁面はすべてガラス張りになっており、それに沿って回廊が続いているようだった。少し高めの天井には所々に天窓があって光が差し込んでくる。昼間のこの時間帯なら特に照明がいらないほど自然光で十分明るかった。その光に浮かび上がる美しいアーチ状の構造は木製で、内装においては床はもちろん家具什器もすべて木製だった。
しかし懐かしく感じた匂いとは、それによるものだったのか。彼女はもう一度建物の中を見渡した。
入り口で立ち止まっている彼女に気づいて、軽く会釈をしながら二人の男性が近づいてきた。
「どうかされましたか」
「いえ、素敵な建物で圧倒されました。しかも外からは想像できない木の良い香りに感動していたんです」
「ありがとうございます。そう言っていただけると設計者として光栄ですね。できるだけ木を感じてもらえるように人が触れる部分以外は無塗装にしてあるんです。塗装しているところもシンプルな植物性オイルのみを使用しています」
長身の男性はにこやかに説明しながら建物の奥の方を振り返り、また彼女に向かい直した。
「ご紹介遅れました。こちらはこの小中学校の校長先生です」そう言ってもう一人の男性を紹介した。
「池本です。よろしくお願いします」もう一人の男性もまた笑みを浮かべながら軽くお辞儀をした。
「よろしくお願いいたします。わたくし建築出版社の瀧岡と申します」彼女は名刺入れから名刺を一枚取り出し、両手で差し出した。「お忙しいところ申し訳ありません。明日から新学期とお聞きしましたが」
「そうなんです。一昨日が入学式でした。やっとここまで来たという感じです」
「校長をはじめ先生方のご意見をいただきながら、できるだけその思いを忠実に形にしようと時間がかかってしまいました。申し訳ありません」
「いやいや、素晴らしい校舎を建てていただいて感謝しています」
話をしながら歩いている三人を追いかけて、また一人の男性が入り口の方から小走りに近づいて来た。
「瀧岡さん、外観は撮り終わりました」彼の首と肩には一台ずつカメラが下がっていた。手には三脚を持っている。
「ありがとうございます。じゃあここからは一緒に、お話ししているお二人のスナップをお願いします。室内はお話お聞きしてから後ほどあらためて回りましょう」
「わかりました」
二人の男性がさまざまなところを指差しながら、思い出話をするように語り合っているのをカメラマンは撮影していく。それを見ながら彼女は不思議に思った。その建物には回廊から中心に向かって床に区切りらしいものはなく、間仕切りといえるものもなかった。唯一空間を仕切るものが本棚だった。それも建物自体が多角形のためか平行には並んでおらず、その前には不規則に学童机が置かれていた。机の数からするとそれがひとクラス、子どもの数からすると一学年なのか。その本棚と机の群ごとに天井の照明があることから、そこが教室であることがうかがえた。
「ここが教室なんですか?」
「そうです。教科によってエリア分けされており、子どもたちは自由に行き来できるようになっています。学年はありますが、クラスはありません。教員はエリアごとに数人配置します。公立の学校でこのスタイルを導入できたのは、あの制度改革のおかげですね」
「教育委員会がなくなり、学校ごとに教育のあり方を話し合って決められるようになりましたから、これを機に新しい学校が次々生まれてくるでしょう。私たちはそこでの学びをイメージして空間デザインしていったわけです」
「そうなんですか。しかし、この環境に馴染めない子もいるのでは?」
彼女がそう言うと、長身の男性はその場所から少し離れたところにある四角い小屋のようなものを指差して言った。
「デンです。周りを遮断して落ち着く場所として、個室として使ったり、少人数で話し合ったりできる場所として使います」
見渡せる広い空間であるために、そのデンが点在しているのも容易に確認できる。しかし、自分がした質問にそれは答えになっているのか、彼女は少し考えたが、それ以上聞くのはやめておこうと思った。仕事ではない、個人的な疑問だと思ったからだった。
そんな彼女の様子を見て、校長が何かを察したのか彼女に質問した。
「瀧岡さんは教育にご興味がおありなんですか?」
「あ、いえ… そういうことでは…
校長先生、実は私、教員免許を持っていまして、教員を目指していたんです。採用試験には受からなったので教育実習は行けなかったんですが。
なので興味があると言っても、私にとって教育は知識でしかありません。仕事柄、こういった新しい学校建築を取材することもありますが」
「そうか、その改革の時期に学生だったんですね」
「はい、でもそのおかげで就職活動はできましたし、こうして出版社にも入れましたから。建築も好きですし…
すみません、私、なんの話を」
「いいんですよ。疑問を持たれるのは仕方ないことです。私もここに至るまで長い道のりでした。
多分この環境だけを見ると、グロテスクと感じる人もいるでしょう。大人の考えの押し付けだらけで。しかしそれを私たちは配慮と言う。またそれに嫌悪感を持つ人もいる。教育とは今あるものを批判し続けた歴史です。
私が出した答えとは、子どもが自分でバランスを取っていることを尊重するということです。私はここで起こることを楽しみにしているんですよ」
そう言いながら校長は、そこにあった学童机にそっと触れた。