「よーう、信さんよう」
谷に響き渡る大きな声とともに一人の男が坂道を登ってくる。
朝焼けから赤みが消え、山の峰から昇り始めた太陽が朝露を一層輝かせる。早朝、また老人はあの場所に立っていた。坂道を登ってくる男は老人を見つけて声をかけたのだった。
「おう、浩さん早いなあ、もしかしてあれがもうできたのか」
「おうよ、他でもない信さんのご注文だからなあ、早く見せたくてよ」
浩さんと呼ばれた男の小脇には、先端が油紙に包まれた腕の長さくらいの棒状のものが抱えられている。浩さんはこの村の鍛冶屋だった。農機具、大工道具、機械部品や生活用品に至るまで、鉄のものならなんでも作る。浩さん自身は鍛造専門だったが、息子が金属加工で旋盤やフライス盤での削り出しや、曲げや溶接までやるので、屋号は鉄屋と呼ばれていた。
「しかし、その御歳で鳶を新調するとはどういうつもりだい、おかげで仕立てが難しかったぜ」
浩さんが抱えていたのは林業で使う鳶口と言われる道具だった。切り倒した木を人力で移動したり積み上げたりするときに使うもので、木に刺さる先端の形状が使い勝手を左右する重要な部分だと言われている。
「ああ、今まで使ってたやつが使いにくくなっただけだよ」
「そりゃそうだろうよ、力仕事は若いもんに任せとけばいいんだよ、重機だってあるしよ…」そう言った時、老人の表情が少し曇ったのを浩さんは見逃さなかった。
「あ…まあ見ろよこの名刀を。信さんの体つき、振り下ろす癖、引っ張る力、全部計算して角度出してんだから。刺さる深さも絶妙だぞ、抜けにくく抜きやすくな」
「ああ、ありがとう老いた力も計算してくれて」わっはっはと笑いながら老人は浩さんから鳶口を受け取った。樫の木でできた柄は真っ直ぐで、握りやすい断面に削ってある。老人の体格に合わせて片手でも両手でも使える長さにしてあった。老人は試しに足下にあった切り株にその鳶口の先端を打ち込んでみた。トンっと軽い音がしたが、しっかりとその嘴は丸太の断面に食い込んでいる。柄の方向に引っ張ってみてもがっちりとその力に耐えているが、老人が一瞬手首を鞭のように振るうとすっと抜けた。
「ああいいね、さすがだ」
「だろ」わっはっはと浩さんも笑った。「山ばっか行ってないで、たまには鉄屋にもおいでよ。気分転換に槌振るうのもいいぞ」
「ああ、そうだな、たまに叩かないと腕が鈍るよな」
老人たちの話が道具談義から世間話に話題が移る頃、背後の家から、母親に見送られて少年が出てきた。子どもたちが小学校に行く時間をきっかけに、この村の全てが動き始める。鳥の声に象徴される静かだった朝の空気に、いつしか職人たちの気配が混ざっている。
「おはよう章、行ってらっしゃい!」浩さんがまた、よく通る声で少年に声をかけた。
「おはよう、行ってきまーす!」
少年は小走りに坂道を下って行った。