誰かに声をかけられたような気がして、見上げると目の前のビルの向こうがぼんやりと明るかった。
距離感なく混ざり合った街の騒音も、聞き分けようとすればひとつひとつが何から発せられた音なのかわかる気がしたが、二つ三つ試したところで僕はそれをやめた。無意味な気がした。きっとさっきの声はそこからではない。
駅前のアーケード。その入り口の前が待ち合わせの場所だった。目の前の信号機の色が変わるその度に、何度も繰り返す人の流れを眺めながら、この状況を変えてくれるきっかけが現れるのを待っている。
僕は友人を待つことに苛立ち始めていたのかもしれない。視線を足下に落とした時、その声が聞こえたような気がしたのだ。
もう一度さっきのビルの方を見上げると、その後ろから月が見え始めていた。
「今日は、あの月だったんだ」
方角的には沈んでいく月だった。今日一日空にいたのに、気づかなかった。弓張月、その月齢の月を見るたびにあの時の記憶が映像となって蘇ってくる。あえてその月齢の日を調べるわけではないが、僕はいつからか、その月を見れた夜は特別な日だと思うようになっていた。
僕が月を見たのか、僕はその月を待っているのか、月が僕を見ていたのか。
「よう!待たせた」
振り返ると、屈託の無い笑顔で友人が立っていた。現れた、僕が待っていたきっかけだ。
「ああ、お疲れ。どこ行く?」
「いつものとこでいいか。で、何考えてる」
「え、なにって…」なんだ?そんなこと聞くやつだったっけ。「あ、悪い、イラついてたの気づいた?お前さ、毎日のように誘っといて毎回遅刻はないだろ」
「違うよ、俺が声かける前、なんか変だった。何見てたんだ?」
そう言って彼の視線は僕を通り越し、背後のビルに向けられた。「月?」その言葉には冗談を含めたつもりだったらしいが。
「ああ、そうなんだ」と僕は答えた。
「ん、なんだ、仕事の悩みか?わかったとりあえず店行こ、そこで聞くわ」
そう言って彼は雑踏の中をアーケードに向かって歩き始めた。僕もそれに続いて彼がかき分けた流れの跡を追う。
雑踏に飲み込まれようとするときに、振り返って空を見るとビルの隙間に月はもうなかった。手前のビルに隠れたか、それとももう沈んでしまったのか。
友人は月を見たのだろうか。