一番劣る者でありたい
2010 年 11 月 21 日 by SIGN
こんなことを書くと、仕事してんのかと思われそうだけど、一応しながら今日はちょっと。
今取りかかっている仕事のひとつ、その依頼者の美容師さんからあるコンサートのチケットをいただき、行ってきた。
大阪のシンフォニーホールで行われた「ウィーン弦楽四重奏団」のコンサートだった。
その美容師さんがお客さんから貰ったチケットだったが、今日は営業日で行けないので、湯浅さんどう?と。
クラシックは嫌いではないけど、そんなに知識もなく、聞く耳もない気がしたが、この美容師さんに勧められたら行かないと損する気がして。
で、行ってみたら、すごかった。なんだこりゃ!だった。
CDやデジタル放送の音質が良くなったとは言え、これはまったくの別物だった。生音とはまさしく生きている音のことだと思った。細く柔らかく、湿り気があった。
その次に感じたのは、四人のそれぞれの役割。
その次に感じたのは、作曲者によっての表現の違い。
その次に感じたのは、作曲者と奏者の関係。
ハイドン、ドヴォルザーク、シューベルトなんていうと、僕なんかは人格すら感じないけど、楽譜をただの情報の集積ではなく、作曲者の意図や表現したいものを汲み取れる優れた奏者にとっては、すごく身近な人として感じられるんだろうなと思った。
何かをちょっとできるくらいで自分を過信したり、人に期待されるよりは、自分の無知無能に気づきたい。そんなことも考えた。
小さな小さな写真館をしています。
いつかお客さんにゆっくり座ってもらえるいすを
お願い出来ればな・・・と思います
バイクは私も好きです。
いつか行ってみていいですか?
写真館の方ですか。コメントありがとうございます。
ご希望に添えるかわかりませんが、いつでもどうぞ。
コーヒーは無料です。
自分の無知無能…その気付きから始めようとする力は、どこから来ますか?
私も地道にやり通さなければ、と思う今日この頃です。
自分よりはるか高いものを見た時です。
張り合うより差を認めて目指す方がかっこいい気がします。
全知全能に触れれば、差も糞もない。目指すも何もない。
「はるか高い」を越えているのです。
Salt的に表現すると、人の世界の相対性と信仰の世界の絶対性の交差点が十字架にあるわけです。
かっこいいですね。
これにこの言葉を借りたのは良くなかったかもしれません。
ウイーンから来た4人はそこまで高くはないですから。
でも、人の世界も興味深いです。