美容室のオープンシェルフを納品してきた。
設置も無事納まり、お客さんにも大変喜んでいただけた。
あの美容室にいる姿を、その美容師さんとお話ししながら二人で眺め、コーヒーを入れてくださったりしている間独りで眺め。
間違いなくこれは僕が作ったのだが、なぜか不思議な感じがした。いったい僕は何を作ったのだろう、と。
今回ひとつの家具を作る上で、いろんなことをその形の中に書き込んだ。それについてはまた、作品リストにアップする際に詳しく語る事にしようと思う。
ただこの家具を評価するのに、その書き込んだ物語は誰かに読まれる事があるのだろうか。
それは依頼者にのみ伝わればいい事なのだろうか。
僕がその場で語らなければ、細部に込めた思いは未解読の遺伝子のように、膨大で無意味な情報としてさまよう事になるのかもしれない。
モードに対する相対的評価ではなく、依頼者による絶対的評価に挑戦するという、いつの間にやら大変な事になっている。
出会いがありいずれ別れる時が来るのなら、最初にさよならを言おうという素直な心には衝撃を受けた。
人は取り繕いを用いて長引かせ、上手く関係を持とうとするのだと、その時感じた。
ご苦労おかけしました。たいへん満足しています。
有名な世阿弥の「秘すれば花」という言葉は、舞台芸術論の文脈で語られた言葉ですから、この場合は適切ではないのだと知りながらも、「秘すれば花」と呟いてしまいます。このシェルフに秘められた工夫や物語は、醸し出された雰囲気や存在感に不可欠であると私は感じるのですが、どうでしょう。その気配は伝わると思います。
しかし‘ナイショ’を知っているのはクライアントの特権。
そうですね、それでいいんですよね。
人知れず隠し持つ物語が、その人の存在感として感じられるのだとしたら。
ナイショもまた、うちの家具の値打ちでしょうか。