そこでの存在感はうすめで、と
2009 年 10 月 3 日 by SIGN
昨日大学の2回目の授業があり、そのとき次の授業で使う材料を製材するのを見学したい人はいないか呼びかけたところ、5名の学生が来たいと言ってきた。
僕のこの授業での役割は、将来建築設計士やインテリアやプロダクトデザイナーを目指す学生に、基礎的な木工を体験させること。教材はこちらで用意するきちんと製材されたキット状態のもので、学生には基本的な道具でちょっと加工を体験させるだけでよかった。
でもなんだか、思いつきのサービスで、また悪い癖か、すぐまたこういうことに。
今朝は9時に駅に迎えに行き、次の課題の材料を、木取りから寸法切りまで目の前でやってみせて、少し手伝えるところは実際に触らせてみた。
そこまでする必要はないかもしれないが、こういう授業をするならやっぱり必要なところだと思うのだ。
本当は僕らだってそう。どこかに生えている木が伐採され、丸太になって乾燥して板にひかれ、それを材木屋から仕入れ、製材して部材になって家具になる。木が好きとか木で物を作りたいとか言っても、そのそれぞれの木の状態をイメージできなければ、デザインや設計なんて薄っぺらく感じてしまう。もしくはとても残念に思う。
僕だってまだまだデザインがうまく、早くなりたいと思うけど、ただ「うまい」と言われるのは何となく嫌だ。
FRPや鉄で作れるものを今回は木で作ろう、という発想は僕にはできないし、僕が作るものはやっぱり木で作りたい。そういう気持ちを、キットしか知らずに終える学生には伝えられない気がする。伝える必要もないかもしれない。しかし、彼等がデザイナーになって素材に木を選ぶ時のことを考えると、こういう形で関わった僕の責任は確かにある気がする。
あの頃とは違い、大学とは器が大きすぎて、やり過ぎては悲しくなるのは経験上分かってはいるが。