彼の祖父がいつもそうしていたように、章はその場所から山と空を眺めていた。
夕暮れの、夜に向かって刻々と変わっていく空の色。風はなく、空全体が波のうねりのような音を発している。山の向こう、遠い街の騒音が、空の高みを往来する旅客機が、どこかで犬が吠えている、列車が線路を走る音と踏切の警報機、回転数を目一杯上げて走り去るオートバイ、救急車、この谷で誰かと誰かが話している声まで距離感なく、一度空へ舞い上がり、混ざり合ってまた降ってくるようだった。
「じいちゃんもこの音を聞いてたのかな」
耳をすまさないと聞こえないこの演奏と、祖父の場合は山仕事の騒音の後の耳鳴りが合わさって、荘厳盛大なオーケストラを聴いているようだろう。そんなことを考えながら、章はここに立つ祖父の姿を思い浮かべていた。
するとその音なかに、明らかにこちらに近づいてくる音があった。村のメインストリートである職人通りを抜け、この家に向かって坂道を登ってくる一台の電気自動車。彼の父親の車だった。その車は章が立っていた庭先をかすめて家の前に駐車した。それを目で追う章に向かって、車から降りてきた貴は手を振った。
「章、おかえり」
「ただいま、父さん」
こんなやりとりは初めてではないかと章は思った。彼が知る父親はいつも眠そうで、無口で、一緒に遊んだ記憶もほとんどない。また、村の誰かと話しているところもあまり見たことがなくいつも一人でいるイメージだった。そんな壁を今、たった一言の挨拶で軽々と越えてきて、そもそもそうだったように新たな関係が築かれてしまった。またそれをなんの抵抗もなく受け入れている自分がいた。
「久しぶりだな。たまに帰って来てたみたいだが、いつもタイミング悪くて会えなかったからな」
「いいよ、気にしてない。父さん、仕事変わったんだって?」
「ああ、お母さんに聞いたのか… そうなんだ。
その話、また後でゆっくりしないか。お前の話も聞きたいしな」
「うん」
「とりあえず家に入ろう、じいさんは多分もう少し遅くなるよ。講演会の後、親睦会があるって言ってたから」
貴は振り返って灯りのついた家を見た。その向こうの山の頂の上に夕暮れの空、北の空はカーテンを引くように青紫が増していくところだった。家に向かって歩いていく、その斜め後ろに息子がいて、そんな景色の中にいることを彼は感じていた。
また章は前を歩く父親の背中を見ながら、ここに自分がいなかった時間を思った。
歩きながらふと庭を見ると、来たときには気づかなかったが、そこに3脚の折りたたみ式の椅子が向かい合って置いてあった。