「ただいまー… 」
玄関から入ってすぐに気づいた家の匂い。懐かしいというより、知らない匂い。
生まれ育った家がこんな匂いだったことを知らなかった。
ここで暮らしていたときには、薪ストーブが燃えている匂いやその日の夕飯が何であるかも、玄関に入った途端にわかったはずだった。しかし、それらに混ざっていたはずのこの匂いには気づいていなかった。
不思議だった。何度も繰り返してきた家の中に向かって「ただいま」と言うことに、かつての自分という誰かを演じているような違和感があり、発した声はなにもない空洞に吸い込まれていくような虚ろな響きだった。
「おかえりー」
家の奥から声が聞こえた。彼の母親の声だった。章は俯いて靴を脱ぎ、鞄を肩にかけ直して顔を上げると、もうその匂いはしなくなっていた。
玄関土間から上がって廊下沿いの扉は手前から居間、食堂、その奥が台所だった。廊下を挟んだ向かい側には個室が並んでいる。食堂の扉を開けると少し低めの大きなテーブルがあり、その上にはお茶の用意がしてあった。
「おかえりなさい」
台所から母親の香純が声をかけた。テーブルの脇に鞄を置いてこちらを振り向く息子を見ながら、お盆にお菓子を並べ、香純は食堂に向かった。
「じいちゃんは?」
「今日は講演会。最近よく行くのよ、あちこちから呼ばれてね。林業の話をしに行くの。技術講習会でも講師を頼まれたりして、伐期が終わっても忙しくしてる。
夜には帰ってくるから、ほら、座ったら? お母さんとお茶しよ」
「うん」
湯冷ししたお湯を急須に移し、丁寧にお茶を淹れる香純の動作を章はなにも言わず見ていた。
「苺のコンポートを和三盆で作ったの。意外と煎茶に合うのよ、はい、どうぞ」
「ありがとう、いただきます」
手のひらくらいの皿に小さめの真っ赤な苺が三つ並んでいた。それを見ながら章は香純が淹れたお茶を一口飲んだ。口の中に広がる煎茶の甘味と旨味、鼻に抜ける新鮮な香りが濃厚だった。まだこんな味覚が自分にあったのかと章は少し驚いた。すかさず、苺のコンポートを口に入れてみる。生の苺より苺の味を感じ、煮詰めすぎずしっかりとした歯応えがあるところで仕上げてある。もう一度お茶を口に含む。「これ、無限にいけるな」章は自分の顔がほころんでいるのに可笑しくなって、お菓子に対する褒め言葉より、母親の凄さを讃えたくなった。
「で、どうしたの? 急に帰ってきて」
「あ、うん、じいちゃんと話がしたくなったんだ。
子どもの頃、何度も聞いた山の話、森の話、木に関わる仕事について、もう一度あらためて聞いてみたいと思って…
なんだか、色々聞いて自分がこれからどうするかを決めたいと思ったんだ」
「それは、章も林業をしたいってこと?」
「いや、それはまだわからないんだけど… とにかく今の自分の目でこの村を見てみたいというか、じいちゃんの目からこの世界はどう見えているのか知りたくて」
「ふふっ、お父さんみたいなこと言うようになった。親子だね」
香純は章の皿に苺がなくなるのを見届けて、急須にまたお湯を注いだ。
「父さんは今どうしてるの?部署が変わったって言ってたよね」
「そうなの。あれだけ熱心だったグリーンエネルギー推進室から異動願いを出して、今は林業課なんだって。
森林管理とか環境保全とか、立場的には管理職なのにフィールドワークが多くて、毎日ヘトヘトになって帰ってくるよ。でも前よりいい顔してる。
おじいちゃんには『役人がチェンソー持ってなにができる』って最初言われてたけど、おじいちゃんもね、なんだか嬉しそう」
「そうなんだ… 意外だね。父さんてなに考えてるかわからないな。あまり話したことないから」
章はまた自分の湯呑みに香純が淹れてくれた二煎目のお茶を一口飲んだ。さっきのお茶よりすっきりとした甘味で、隠れていた渋みも少し感じられた。
谷を見下ろす場所に建つ家ではあるが、山際であるため西向きの窓からの西日はわずかな時間しか差し込まない。夜への合図のように一時だけ室内を黄色く染めてはまた窓に吸い込まれるように光が消えていく。
「話してみたら? わりとおもしろい人だよ」
家の中の灯りがつき、台所で香純が夕飯の支度をし始めた。
章は自分の部屋に荷物を置きに行ったあと、外に出て庭先の展望台で二人を待つことにした。