池本校長の話を聞きながら、彼女は今いるこの校舎の構成をもう一度思い返していた。そこに子どもたちがいることを思い浮かべ、過ごす時間のことを。
大きな窓の回廊沿いに置かれたベンチに、本棚の前に、教室と呼ばれる空間で先生と話し合う姿、デンで一人静かに読書する子どものことを。
そして何気なく校長が手を置いた学童机に視線を移すと、そこだけ他の構成物と違う空気感があるように感じた。
「校長先生、その机は?」
「お気づきになられましたか。この建物の設計から内装のデザインまではこちらの設計事務所にお願いしたんですが、家具に関してはある家具職人に依頼したんです。私の知人でしてね、理解者の一人です」
「そうだったんですね… 椅子と併せてすごくシンプルなデザインですが、確かに学校用の机としてはあまり見ない形ですね。しかも小学生用としては高さの調節機能がないのは珍しいですね」
その机と椅子は杉でできていた。一般的に普及している規格より少し大きめのサイズだったが、材質からすると同じくらいか、もしかすると軽量なのかもしれない。直線的な面と線の構成でありながら、どこかあたたかみを感じさせるデザインだった。
「これは現場の先生の声を要望としてその方に伝えました。子どもたちが教室でエリア間を常に移動すること、時に机を寄せ合って大きな会議机や作業台にもなるように高さを統一し重量も考慮してあります。そして何より、この質感がいいでしょ。ここだけは人の手の跡を感じさせるものにしたかったんです」
校長はその机の周りを歩きながら、天板や側板、椅子の背もたれに触れては何か思いを巡らせているようだった。
「校長先生のこだわりの部分なんですよね」設計士の男性も今まで何度も聞いてきた話だったらしい。「私たちもこの学童机がある空間をイメージするところからスタートしましたから」
「子どもたちが過ごす時間を共有し、記録し続ける家具。この小さな天板が彼らの学びの舞台となる。
この机と椅子を卒業時に彼らに一台ずつプレゼントしようと思っているんですよ。そして、新入生のためにまた一台ずつ新造する。建物は永久的ですが家具は子どもたちと一緒に動いていく。学ぶ知識と何の関係があるのかと言われるかもしれませんが、私はそれも学びの環境だと思っています」
「素敵なお話ですね… 」
と、その時彼女は、校長が触れている椅子の背もたれに焼印が押してあるのに気づいた。『TSUBAKI』
「TSUBAKI?これって…」
「ああ、私の知人の家具職人の工房名です。家具職人といっても本業は山守でしてね。林業と兼業で家具を作っているんですよ。もう80過ぎになりますので、今は後継者育成の立場でおられるようですが」
「あの校長先生、偶然ですが私の実家はこちらの家具工房の近くなんです。その方もよく存じ上げています」
「おお!そうでしたか。それは偶然。いや、あの方ならむしろ納得いく話かもしれませんね」と言ってうなづき、彼女に向き直った校長は少し目を潤ませながら笑っていた。
取材を終え、会社に戻る電車の中で彼女は今日のことを振り返りながら、タブレットに取材メモを書き込んでいた。横では同行したカメラマンが、撮影したデータをクラウドにアップし終えて居眠りを始めている。その写真の中に写る校長とあの学童机を見ていると、胸の中が温かいもので満たされていくような感じがした。
「あれからぜんぜん連絡もなかったのに… なんでこんなところで出会うかなあ」
彼女はタブレットを鞄にしまい、窓の外を流れていく都会の景色に目をやった。そして、数日前に久しぶりにかかってきた母親からの電話を思い返していた。
「出版社の仕事が忙しいのはわかるけど、ちゃんと生活してるの?」
「してるよ、大丈夫だよ。学生時代から一人暮らしはしてるんだから、心配しないで」
「だったらたまに連絡くらいしなさい。お父さん寂しがってるわよ。先生になるって言って大学行ったのに、就職してそれから一度も帰って来ないなんて」
「一回帰ったでしょ、うん… まあ、わかりました。今度休みが取れたら帰るよ」
「きっとよ。あ、そうだ、あきらくんこっちに戻ってきたのよ。覚えてるでしょ椿本さんとこの章くん」
「え… なんで…?」
「去年の春だったかな、一度帰ってきておうちの人と話をしたみたい。それからすぐに仕事を辞めて戻ってきて、今はおじいちゃんに弟子入りみたいな感じで、林業と家具作りをしてる。
ゆみはそっちであきらくんとは会ってなかったの?」
「会ってないよ。いや、一度だけ学生時代に会ったかな。偶然同じ電車に乗ってて向こうから声をかけてきて、降りる駅も一緒だったから、少しだけホームで話をした。お互いの近況報告しただけだったけど。なんか、雰囲気違ってたし緊張して、あまり話せなくて、それっきり」
「なんだそれだけか。大学進学の時、追いかけていくように見えたんだけどね」
「なによそれ、どっちが?」