「室長、そろそろ交代のお時間ですよ」
その女性の声を聞いて彼ははっと我に帰った。目の前のモニターと操作パネルに集中し、意識は化学プラントのパイプラインの中を走り巡っていたからだ。
「ああ、ほんとだね。もうこんな時間だ」
振り返ろうとすると、声をかけた女性が彼のすぐ横にいたことに気がついた。目が合いそうになったが、彼はもう一度モニターへと視線を移し、交代に伴う操作をしながら言った。
「次は誰だったかな」
「田中さんと石橋さんです。もう事務所へは来られています。お呼びしますか?」
「ああ、頼みます」彼がそう言うと、「私も今日はこれで失礼します。お疲れ様でした」と言って彼女はその部屋から出て行った。
作業服に短めの髪を束ねた後ろ姿を見送りながら、「直視できるのは後ろ姿だけか」彼は心の中で呟いた。
入れ替わりに部屋に入ってきたのは石橋と呼ばれていた、彼と同い年くらいの男だった。
「お疲れ、どう?調子は」
「ああ、俺やっぱ苦手なのかも」
「は?何が。機械の調子だよ」
そう言ってから察したのか、石橋という男は笑いながら彼の肩をぽんぽんと叩いた。そして彼の前のモニターを覗き込み、表示されているデータに隅々まで目を通していった。
「まあ最初はこんなもんかもしれないな。初心者にしてはむしろ上出来なんじゃないか」
石橋は彼の隣にあった椅子に腰掛け、持っていた鞄から説明書のような書類の束と筆記用具と水筒を取り出して机の上に置いた。
「いや、理論上はもっといけるはずなんだよ。小型化のリスクはあるだろうけど、その分圧力に対してのマージンは取れているし。もしかしたら完全自動化によるAI介入が原因なのかもしれない」
「ま、それはあるだろうね」
空になった彼のマグカップに、石橋は水筒から温かい飲み物を注いだ。湯気が立ち、香りが広がる。
「いい香り…落ち着くな。ほうじ茶か」
「俺の実家で採れた茶葉を自分で焙じてみた。
素人でも扱えるようにしようというのだから、安全対策は万全でないと。集約したデータ管理で周りの環境や気象も影響しているだろう」
「ああ、そうだな。しかしすごいことを考えたもんだ。地下資源に頼らない自国でのエネルギー供給が政府の悲願だったとはいえ、木からこれだけエネルギーが取り出せるなんて誰が予想できただろう。バイオマス発電や、リグニン抽出してレシプロエンジン回してた時代とは違う。しかも各自治体レベルでこのプラントを設置して管理できる安全性もあって」
「わかった、お前がこの技術に心酔してるのはよく知ってるよ。だけどあとは俺に任せて、そのお茶を飲んだら今日はもう帰れ。夜は俺の担当だ」
「うん」
彼はマグカップのほうじ茶をゆっくりと飲み干し、帰る身支度を始めた。身支度といっても、筆記用具とノートパソコンを鞄に詰め込むくらいだった。作業服の上から羽織る上着は、事務所のハンガーに掛けてある。
「ところで、親父さん、伐採期最後の神事に章くん連れてったそうじゃないか。やっぱり孫には山仕事を継がせたいんじゃないか」
部屋から出て行こうとする彼を出口まで見送りながら、石橋が話しかけた。
「ああ、だろうな。俺には脈がなかったからな。だけど、俺は息子にどうしろとは言わないつもりだ。あいつが決めればいい。
俺のやってることを親父が否定的に見ていることは感じている。しかし、単位が家族であれば、村程度の社会なら今までのやり方でいいかもしれないが、人が増えれば、みんなが同じように暮らすためには新たな仕組みが必要になる。それくらいのことは親として章には伝えたいと思ってる」
その言葉を聞いて、石橋は笑って頷いただけだった。彼のことを不器用なやつだなと思っていた。「反発しているように見えて、お前のやってることも森から離れてはいないんだよ」と心の中で呟いていた。
建物の外に出ると息が白くなるほど気温が低かった。その施設は山の中にあり、森に囲まれていた。
建物からはみ出したプラントの設備がライトアップされていて、見ようによってはおとぎばなしに出てくるお城のようだった。
照明の光に吐いた息が照らされていつまでも漂っている。
そんな寒さ故に駐車場に停めてあった車に急いで乗り込んだ彼は、その時自分を含む景色に気付いていなかった。
黒い森、緑色に光る建物、空には満月が輝いていた。