角度接合の加工をし仮組みしてみたジグザグチェア。鉄が隠れると確かに妙な感じ。木の板だけではありえない形が美しくもある。
完全に蓋をしてさらにこれから削り込んでいくのだが、完璧にできればかなりいいものになる予感がする。しかしまだそこまでのレベルに仕上げられるか不安だ。不安定な椅子め。
薄く削った板が放っておくと直ぐに反り始めるので、加工する毎に重ねて重りをのせてプレスする。仮組みとすり合わせとプレスをローテーションしてなんとかここまで。それでも残ってしまった反りはまた一晩プレスしてのばしてと、意外と作業は進まない。早く接着してしまいたいのに、ディテールの加工は分解した状態でないとできないので、反りとの戦いはまだまだ続く。
こういった発想はやはり形を考える人間と、それを作る人間が別でないとできない気がする。もちろんオリジナルは一人の作家による作品であるが、その人は歴史に名を残すデザイン界の巨人であるから話は別として、作る人間が考えるとデザインは困難なことは避けるようになるしどんどん合理的になっていく。
また作ることを知らず形を考える人のアイデアというのは形そのものは面白いのだが加工に関する配慮はほぼなく、理想を描くだけ。そしてそれを作る人にどうすればこの形ができるかと相談を持ちかける。作る人はその配慮のなさに苛立ちつつ負けじと挑戦しようとする。なぜなら作る人のほうは自分一人でもデザインして一脚の椅子を作れるからだ。
形を考えるだけの人の椅子はその人だけでは存在し得ない。それを現実の形に作る人が必要なのだ。そして都合のいいことに、そのただの発注であるものが作る人にとっては挑戦状に見えてしまうということ。
オーダーメイドって結局それに近いものがある。
作ったものを売るはずが、売られた喧嘩を買っているのだから儲かるはずがない。
「作ったものを売るはずが、売られた喧嘩を買っているのだから儲かるはずがない。」
商品を作るか 作品を創るか
儲かる仕事は 満腹を与えてくれ
お金に換算できない仕事は 満足を与えてくれますね(完成するならですが、、)。
完成しますかね〜
形にはなっても実用に耐えるかが心配です。そこが考える人と作る人の危機感の違いでしょうか。どきどきします。