見えるものの影でよし
2013 年 7 月 29 日 by SIGN
ふたつのテーブルがやってきた。
ひとつは修理の依頼で、折畳式の脚がぐらついてきたのでしっかりしたものに取り替えてほしいとのこと。
近所に住む二人暮しの老夫婦でご主人が最近立ち上がるのが困難となり、今までのローテーブルでは手をついて立ち上がる時に低く、さらに不安定なテーブルでは危険ということだった。
脚はどんなものでもよく、必要十分な強度があればよいとのこと。さて、どこまでやるか。
直して使いたいということはそのテーブルに愛着があるか、お金をかけたくないかのどちらかで、察するにやはり。
だとしても事情を知っている以上雑な仕事はしたくない。
手に入る安い材料から発想しようとホームセンターへ行ってみたが答えは見つからず、2軒回って帰ってきた。
構造とデザインを先に考えようと悩んでいたら眠り込んでしまった。昨日の花火のバイトの疲れが残っていた。
吉野川で行われた花火大会。奈良県南部の水害の影響で見送られていたお祭りが、今年は復興を合い言葉に数年ぶりの開催となった。
寄付によってまかなわれている花火大会は当初予算が集まらないだろうと言われていたのだが、結果ふたを開けてみれば予想以上のお金が集まり、花火の数も盛大なものとなった。
ユニフォームとなっている花火のロゴがプリントされたTシャツを来て町を歩けば視線を感じ、弁当の買い出しに行ったスーパーでは店員さんに手厚い対応と激励をいただき、このお祭りに対するこの町の人々の思いと僕らに対する期待を感じた。
花火はその期待に応えるすばらしいもので、川の向こうから聞こえる歓声と拍手がそれを証明していた。
が、しかし。
花火の仕事というと夢のようないい仕事じゃないかとよく言われるが、それはそういう人の気持ちへの心構えの部分であって、実際の仕事は人知れず過酷なものだ。
仕込みと言われる準備から始まって、炎天下での設置作業、雨に濡れながらの待機、消費中の安全管理、終わった後の片づけ掃除。
掃除は半径100m、風があればさらに広い範囲に散らばった何百発分の玉の破片を10人ほどで這いつくばって拾っていく。その作業は深夜におよぶこともある。
感動の裏に隠された、あまりにも分かりやすく現実的な労苦によって支えられているという図式。求める側が報酬を払ってそれを誰かにさせていると見るか、求めに対してこちらが与えていると見るか。立場によってその見え方は違う。言えるのは感動を求める側には、その労苦を知る必要は100%ないということだ。
さあ、構造をさっさと決めて作業を始めよう。
居眠りから覚ましてくれたのはお隣の奥さん。こちらも老夫婦二人暮し。
いらないテーブルがあるので貰ってくれないかと見せられたそれは、一枚板にダイナミックな彫り物が施された個性的なもの。こちらも脚がぐらついているのだが、直したとして、どうしよう。
フィニッシュは作為的な面を感じてしまいますが(個人的に)、
板は良さそうですね。
最近はローズウッドでもブラジルの古民家解体の梁や柱の方が良品なので、再生して用いる、そんな時代なのかもしれませんね。
花を咲かせていたり、実を付けた時は目に留まりますが、その植物の一生の中では、殆んどの時を雨に打たれ風雪に耐えて陽に向かって枝葉をのばし、その為に地中に根を張る日々
裏方 素晴らしいです。
私はその様なお方を心からリスペクトしています。
お体に気を付けてお過ごしください。
裏方というとあの方を連想しますが、表方というか見られる表舞台はどう考えればいいのでしょう。またそれを見てただ楽しむ人々は何者でしょう。
仕事において人は表も裏も選択可能で、裏方のほうが選びやすいところも興味深いです。
電気屋さんもお体気をつけて。水遊び楽しみにしています。
表のあるものには必ず裏があり、裏があるからこそ表があります。まさに表裏一体。実体があるからこそ影があり、目に見えないものがあるからこそ、可視的世界が意味を持つのだと信じています。あらためて、裏方はいい仕事だと思います。
表しか見ない人々は、表で楽しんで頂く程度かもしれませんね。
神を知ってからは、人が近づく事すらない遠くの急斜面に、咲かせる山桜や一輪の花を見ても
「主よ、あなたはここにも、、、」
と、それまでと全く世界が違って見えました。
「水遊び」
いい響きのことばです。
でも姿を現さないってちょっとずるい気がします。
「姿を現さない」
実はそうでもないんですね。
神を私たちにも見える形とするために、イエスが来てますし、
トヨタにはトヨタのパナソニックのはパナのしるしがあるように、神の造られたものには、目で見えないだけで、小さな石ころにさえ印があります。
殆んどの人は花火を上げているのは花火師だと知っている様にようは、みようとするか、という所だとでしょうか。
裏方が出て来た時は、舞台が終わった時が相応しく
誰だって映画を見ている途中で、製作スタッフが出てきて挨拶したり、私が自分の人生を演じている時に原作者や、脚本、監督が出てきて駄目だしされたら、やってられません。
大工が以前作ったお客さんの、家の前で
「皆さん、これを作ったのは私です。」とか
花火師が「俺のお蔭で、、」っていちいち、見物客の前に出てきていたらそうであってもウザくないですか。
実は、今、神が裏方に今いるには、神の選んだことでもないんですね。
こんな事を書いている私も少し前までは(今でも)
自分が自分の人生のハンドルを握っていたものです。
多分強制的に、出て来られたら
「あんた、ズルいよ。俺のメーカーに俺が敵うワケないじゃん。俺はまだ大丈夫、まだポンコツじゃない。
すっこんでろ」ってなるか、しぶしぶ認める程度だったかと思います。
神も 人も 裏方なのかもしれませんねえ。
そのおかげで 人も助かり 人も喜び
いいですねえ。
人は神に感謝の祈りを捧げ
人は人に対価を支払い
世の中まるーく過ごせるのかもしれませんねえ。
見ようとするか、ですね。たしかに。
振り返るとずっと昔から会いたかったような気がします。
僕はどちらかというと出てきてほしいんですけど。
これから茅野まで走ります。電気屋さん、また後日。