走って脚でデザインする
2010 年 3 月 15 日 by SIGN
こないだの土曜日は、例のクリスチャンの友人の依頼の打ち合わせで、三重県桑名市まで行ってきた。
この話が始まってから、何を作るかもしっかりと決まっていなくて、ただ時間が過ぎていき、それさえも聖書の中から読み解いていこうという途方もない話だった。
今回の打ち合わせに際して、ある程度は知識としてイエスの事を知っておかねばならず、この一ヶ月ほど時間を見つけては聖書を読んでいた。しかし、信仰という基盤がなければ、なんと読みにくい本なのだろう。何度も立ち止まり、なかなか進まない。
そんな中にも、おぼろげにいくつかのキーワードが浮かび上がってきた。とりあえずはそれを相手にぶつけてみるしかなかった。
聖書の中にはほとんど、もちろん家具に関する話などは出てこない。
それでも今回の打ち合わせで、お互いに用意した言葉には不思議と整合するものがあった。
「食卓」
とにかくその手がかりが掴めただけで、やみくもに手探りしている状態からは脱出できたと思う。ここからは、それがどういうものであるかを、ひとつずつ決めていく作業になっていく。
手がかりとしての言葉が、見えなかった部分に光を当てるように形になっていく過程は、SIGNにおけるデザインの醍醐味だ。
その少しずつ見えてきた形、構造に関して、大工の友人である中島君に聞きたい事があったので、大阪で仕事中の彼をつかまえて話をしてきた。
構造についてはもちろん、今日の話でなんとなくいけそうな感触があった。そして、大工の中でも彼を選んだ理由は他にあって、そっちの方でもかなり大きな収穫があった。
「目標として同じものを見ているならば、今あるものを捨てて別の道を行く事に抵抗はない」
今回の仕事において重要なキーワードになる予感がする。
僕は彼の口から、こういう言葉を引き出せる数少ない友人ではないだろうか。
果たしてどんなものが出来るのか楽しみです。
かたちのないものをかたちにしていく作業は大変ですよね。
家具の場合はガラスのオブジェとも違って、食卓と言えば、ある程度の決められたかたちというものがあります。
私の場合は自由にかたちを作れる方が楽です。
写真より絵画の方が楽で、木より土の方がイメージしやすい。音楽だと一番自由度が高いのです。
アウトプットしやすい手段は人によって違うのだと思います。
SIGNの家具は、アートというより哲学してますね。
そうですね、家具は自由度と言うと低いかもしれません。
自由に作ってしまうと、使いにくかったり、壊れやすかったり、また主張が強すぎると飽きられやすかったり。
いつも悩んで、僕にとってもアウトプットしやすい手段とは思えませんけどね。ああ、そんなこと言ったらいけませんね。
写真の癖か、家具は記号の集積なんだと思います。
よくみなさんこんなめんどくさい家具屋に注文するなあ、と思います。
写真は記号の集積。そして、その記号は情報の固まり。その情報を読みとくことによって、世界とそれに向き合う私の意識を掘り下げていく。
家具に詰まっている情報ですか。
「はじめに機能ありき」ではない家具があるとすれば、それはどんな用途にも使い用のない家具になるのか、それとも海底に沈んだ軍艦が魚礁になるような使われ方をするのか。
そんなことにも興味がわきます。