足の裏から感じること
2010 年 2 月 4 日 by SIGN
今日が大学の最後の授業だった。
最終ぎりぎりまで作業をしてやっと全員完成だったので、ばたばたと走り回りゆっくり話す時間もなく、僕も最後の方は疲れが出てきて、ちょっとさびしい終わり方になってしまった。
何もあらたまってお別れを言う立場でもないし、担当の先生から一言を求められた時に何と言っていいのか、いつもの調子で無駄話をし始めそうな自分をおさえてまとまりのない感じになった。
週一回の実習授業というあっさりした関係は、僕にとっては逆に難しい。だからといって彼等に踏み込んでいく必要性なんてどこにもない。
非常勤講師は、どうぞ利用してくださいという気持ちで臨まなければいけなんだなと、やってみてわかった。前は呼ぶ立場だったから、そんな複雑な心境だとは気付かなかったのだ。あの時の先生方に申し訳ない気がちょっとしてきたり。なんで今さら。
こんな授業で教育のことを語るのはおこがましいのだが、やはり教室には学生に対する愛情を持つ権利が与えられないと、先生はやりにくい。知識の伝達装置になりきれるものではない、そんな気がする。
授業お疲れさまでした。
僕もきょうで今年度さいごです。
いまから行ってきます。
「愛情を持つ権利」ですか。
それは非常勤であっても自由に持っていい権利でしょ。
僕はむしろ非常勤であるからこそ持ちやすいと感じていますよ。
学生と毎日接していると、関係性が濃くなりすぎてしんどい。
僕は「写真」を通じての関係しか持てない気がする。
写真を愛する気持ちと学生を愛する気持ちはほとんど同じです。
自分でもよくわからないけど。
時間と密度の関係でしょうか。
学校から与えられた時間と、内容のボリュームを考えると、余計なことをやってる暇はなく、即ちそういうことは学校から求められてないということだと思うし、また担当の先生のテリトリーを侵したくないという気持ちもあるんです。
毎日接している先生には絶対にかなわない気がするんです。
ラッキーさんの場合、あの学校だから、とも言えるんじゃないでしょうか。担当の先生がしっかりしてたら、やっぱり遠慮しますよ。
あんまり大きな声では言えませんが。
”先生”という立場には、さらっと流せないものがおありですね。
私は仕事の性質上、一度相談を受け、その後は「どうしてるかな?」と思っても、相手が連絡してこない限り、かかわりようがないケースがあります。逆に、相談したい、と求められても「管轄が違うので…」的に、受けられないケースも。
そこでできることを、と割り切る部分と、それではつまらん、と自分の趣味的にこだわる部分とを持ちながらやってます。
教育に関係する話がSIGNからでると、いつも新鮮です。
だからですよ。銀じ郎さんのお仕事の話を聞いてると、恐ろしくてとても先生なんてできないって思うんです。
こないだSaltさんが言ってた、「一人一人と契約を結ぶ」ということを、僕も意識していました。それはたった一言で解決する場合もあるし、じっと待つ時間が必要な時もあるし。それはまさに「愛情」という言葉に例えられるのではと思っていたのでそう書きました。
思い入れや執着や、はたまたテクニックなどではなく、ただ単に個人対個人の関係をふつうに持つことって、人間同士なんだから当たり前な気がします。
ましてや教える教えられるという関係は、本能的に慕う慕われるという感情を伴うと思いますし、それに反したことをすればやはり違和感が生じるでしょ。その関係や出来事を重大なことだと感じれば、知識をぽんと放り投げて渡すようなことはできません。教えるという行為は、伝えたいという感情が伴うはず。
ということをまあ、言いたかったわけです。
すごく当たり前なことを話している気がします。無知ですね。だから新鮮なんですかね。