何をいわんとするのか
2009 年 7 月 26 日 by SIGN
今日は休日で、カホンを見に来るというお客さんがキャンセルになったので、休日らしい記事を。
今、あることがきっかけで遠藤周作を読んでいる。今まで名前しか知らず、どんな小説を書く人かも知らず、きっとそのきっかけがなければ手に取ることもなかっただろう。これは本当に偶然で、落ちていた本を拾ったら遠藤周作だった、くらいの何気ない出会いだった。
その本は1973年に出版されたハードカバー本で、ブックカバーは無くなっており、背表紙のタイトルが気になって開いてみると、遠藤周作、作家よりも中身に興味が湧いて、家へ持ち帰り読み始めた。
その内容はここ数年、僕がずっと気になっていたことについての遠藤周作の見解、ということにしておこうか。それにしてもさすがは小説家であり、その世界が生き生きと伝わってくる描写には説得力があった。
その本編を一気に読み終え、作者のあとがきを見ると、この本をプロットにした小説があるという。そう言われるとやはり読みたくなってしまう、そういう内容だった。
Amazonで調べてみるとさらにその続編も書かれていることが分かった。そして早速それらを含む数冊を注文したのだ。
数日後届いたその文庫本の表紙をめくってみると、よく知った、忘れもしない名前が。
カバー写真/並河萬里
届いたほかの本の表紙を見ると、やはりそうだった。瞬間的に口をついて出た言葉は、「なぜ」だった。
よく見ると確かに見覚えのある写真だった。独特の癖がある。この本にこの写真、それを選んだ講釈を語る声まで聞こえてきそうだった。なんということだろう、今まで知らなかった、気付かなかった、それともその自慢話を聞いていたが、あのころの記憶を忘れようと意識していたために思い出さなかったのか。
しかしなぜ今さら。肺ガンで亡くなってから3年が経つ。もちろん10年以上その姿すら見ていない。それを一体何の話があるというのだ。
遠藤周作との関係もわからない。梅と太宰のこともあるし、その時の話題の写真家が文庫本のカバー写真に起用されることはよくあることだ。この本が文庫化されたころ、僕が助手をしていた頃から10年ほど前の勢いを考えると、そういうことはありうる。しかし、遠藤の代表作といわれる「沈黙」にまで並河の写真が使われていることが、どうしても流せない、ざらつきのようなものを感じてしまう。それは違和感のようであり、納得のようでもあり、相反するものが当然のように収まっている様というか。
それでも僕は遠藤周作を読みたいから、きっとこれからも何冊かは増えていくだろう。その度に、先生の写真も僕の本棚に増えていく、ということか。
こんなにも、憧れながら憎んだ人はいない。
先生、ちょっと出てきて遠藤作品について話しましょうよ。